サドベリースクールに対する大きな誤解について
この度、なんとサドベリースクールの卒業生・現役スタッフの方からコメントをいただきました。
それをきっかけにサドベリースクールに関する誤解や不明な点がいくらか解消できたので、記事としてご紹介します。
「遊ばせる」場所ではない
これまでの記事で、「遊ばせる」教育であると強調していたけど、これは間違い。
厳密には、
遊ぶかどうかも子どもたちに任せる場所
が正しい。
そもそも、サドベリースクールにおいては、「遊び」って何?ってことになると思う。
ゲームをしていたって、何かしら学ぶことはあるから「勉強」とも言える。
机に向かって計算問題を解いていたって、楽しむためにやっていれば「遊び」とも言える。
すべてを学びととらえて子どもたちを見守る、という感じでしょうか。
「自由にさせる」場所でもない
「自由にさせる」というのも少し違う。
「社会はもっと自由であるべきだ!!」という大人の勝手な考えによって、
子どもに「自由に生きなさい。」と自由を押し付けるのが、「自由にさせる」の本質。
自由な環境にするか、不自由な環境にするかも生徒たちが自分で決めるのがサドベリースクール。
生徒たちが自らルールをつくってそれを守るという“不自由な”環境に変えることもできる。
スタッフは何をするのか
100%子どもを信頼して、学びの場を提供する
というのはわかったけど、具体的に何をしているのかが全く見えてこなかった。
モノを与えることは押し付けになる可能性があるので、やらない。
じゃあ何をするんだと。
ひとことで言うと、スクールを継続させること。
予算に関することや、人を集めるためのイベントの提案などです。
サドベリースクールでは、学校運営に関しても生徒はスタッフと対等な立場で意見を出せるのですが、
生徒には、スクールを継続させる使命はありませんからね。
求める子どもたちに応える
欲しがってもいないものを大人たちが良かれと思ってあれこれ与えるのは、選択肢を増やしているのではなくて
与えたものの中から選ぶように強制しているとも言える。
受け取る側が望んでこそ、その「提供」の真価が発揮されるんです。
サドベリースクール、とっても奥が深い。
だけど、「自由な教育」って聞こえがいいから飛びつく人も多いと思う。
それは生徒じゃなく、運営側が。
名乗ったもの勝ち、目立ったもの勝ちになって、サドベリースクールの本来の魅力とは違った部分が世に広まってしまうという懸念もあります。
資格があるわけでもないので、「これが正しい」というものはないのでしょうが。
個人的には、現在のサドベリースクールの姿が存続してほしいですね。
もっと理解を深めたい。サドベリースクール。
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