理不尽なことを乗り越える経験は必要か


私はどちらかと言うと、理不尽なことなんて跳ね除けて余計な苦労をすることは避けるべきだという考えを持っているのですが、自分の経験を振り返るとそれなりに理不尽なことに出会い、それらに対処してきたことに気が付きました。

そしてそれらが「あんな理不尽なことにも対応できたのだからこれからも大丈夫だろう」という強い自信に繋がっているのも確か。

 

つまり、理不尽なことを否定しつつも、それらに支えられているわけです。

 

ということは、実は理不尽なことを乗り越えるという経験もやはり必要、とは言わないまでも、あったほうが自分のためになるのではないかと思ったのです。

 

問題は、その理不尽さが耐えるに値するものなのかどうかです。

 

この見極めに失敗すると心や体を壊して再起不能になってしまうため、かなり重要です。

 

正直、答えはわかりません。

 

自分自身も、結果的に耐えられただけで何かの拍子に挫折していたかもしれないし。

それとも、耐えられそうになかったら避けて、耐えられたことだけ都合良く覚えているのか…。

 

ひとつ言えることは、どんな生き方をしていても多少理不尽なことには出会うのでわざわざ探して経験するものではないと思います。

あとは、自分で選んだ道じゃないときに出会った理不尽さには耐える必要はないと思います。というか、たぶん耐えられない。

 

結局、自分の意志ではなくなんとなく道を進んでいる人が理不尽さに耐えられず壊れてしまうのかなと思ったり。

未来の自信となる理不尽さは自分で選んだ道の上にしかない、と思う。

 

乗り越える、というのもつまりどういうことなのかも私自身よくわかっていないけども。理不尽さに気付いて別の道を見つけるのも見方によっては乗り越えたとも言えるし…。

 

…書きながらよくわからなくなってきました。

 

 

理不尽なことを乗り越える価値、みなさんはどう思われますか?