サドベリー教育の「とにかく自由にさせる」やり方は自己中な大人を生む?
新しい教育について勉強中。
今回は自由にさせることの弊害について。
自由にさせたほうが周りを深く理解するよ!
サドベリーに対する異論として、最も頻繁に提起される反対意見のひとつは、「自分で学ぶ」ことに焦点化し過ぎることで、コミュニティー感覚のない、ナルシズムに陥る大人を育てているだけではないか、という批判である。
うーん、確かに。
規制せずにそれぞれの自由を尊重していると、他人を全く気にしない、いわゆる“自己中”な人間になってしまうのではないかと思ってしまいます。
しかし、そんなことはわざわざ教えなくたって身についていくんだ!っていうのがサドベリー教育の考え方。
子どもたちが熱いもの・冷たいもの ・固いもの・柔らかいもの・明るいもの・暗いものに反応するのは、こうしたプロセスの中のことである。
それは大人でも同じことで、新たに遭遇した、新しい未知の物理的な環境に対し、新たな対処法を生み出しているわけだ。
しかし、こうした物理的な環境は、個人を取り囲む世界のほんの一部でしかない。「他者」もまた世界における重要な構成物であるのだ。
要するに、子どもが「火は近付くと熱い」とか、「氷は触ると冷たい」とかいうことを生きていく中で学んでいくのと同じように、
わざわざ教えなくても他人の存在を認識して、
「いじわるすると怒る、悲しむ」とか
「親切にすると喜ぶ」とかいうことをちゃんと学んでいくものなんですよってこと。
むしろ、教えられるよりも真に理解するはず。
だって、
「火は熱いんですよ!」
「氷は冷たいんですよ!」
といくら写真や映像を見せて教えたって、子どもたちにとっては「ふーん」で終わりですよね。
火に近付いたり氷に触ったりするのと同じように、実際に他者を観察して、接することで、他者との関係の築き方を習得していくんです。
さらにそれだけじゃなく、
「ふむふむ。あぁいうふうにやるとこういう結果になるんだな」と、自分の体験じゃないことまでも疑似体験していくことで、より自分自身の「世界はこういうものなんだ」という理解を深めていくことができる。
自由にさせないほうが問題!
「子どもたちだけで遊ばせると何が起こるかわからない!」
と言って大人が付きっきりで、子どもたちが危ないことを仕掛けたらすぐ止める、というやり方を続けていたらどうなるでしょう。
上の例で言うならば、
子どもたちは火に近付けない。
触って「熱い!!」と感じて、場合によっては火傷を負って、ヒリヒリし続けるという経験ができない。
こんなのおかしいですよね。
火傷したっていいじゃないですか。
大人がいろんなことに恐れすぎているせいで、子どもたちは必要のない規制の中で、リアリティの薄い世界を生きていくことになるんです。
なんともったいない。
結論
天文学者はその宇宙理解をあなたに歌いかけるかもしれない。しかし彼はあなたにその理解を与えることはできない。
音楽家は宇宙の全てのリズムをあなたに歌いかけるかも知れないが、リズムを、それを響かせる歌声をつかむ耳を、あなたに与えることはできない。
数学の言葉で重さや計測の世界をあなたに語りかける人も、あなたをそこへ連れて行くことはできない。
ある人の目は、他の人に翼を与えるものではないからだ。
自分自身で経験して、学んで、習得しないと何も得られないんです。
そういう場を提供する学校が世の中にはもっと必要だ。
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