新しい自由な学校は「とにかく遊ばせる」!

2017.5.21


そもそも、教育って何のためにするものなんでしょう。

その答えはとてもシンプルで、人類が今後も生き続けるためです。

「そんな大層な。」

と思われるかもしれませんが、

いっぱい勉強していい大学に入るためではないし、

いっぱい稼いで高級車を乗り回すためでもない。

他人に迷惑をかけたり恥をかいたりしないためではないし、

何かの賞をもらって親に喜んでもらうためでもない。

そんな上辺の話ではないですよね。

やっぱり、これからより長く生きていくためなんです。

もちろんこれらも過程として目指すものではあるかもしれないけれど、決して目的ではありません。

でも、最近の教育って、これらのことが目的になってしまってません?

なので、ちゃんと私たちが生きていくために必要なことを教えてくれる教育の場をもっと増やさないといけない。

今日はそんな新しくて自由な学びについてのお話。

参考図書:自由な学びとは_サドベリーの教育哲学
 
 

とにかく自由が足りないよ!

人類が自滅を回避する唯一の道___それは子どもたちに誕生以来、彼らが喜んでするだけ、考える自由を与えることだ。

でも、だからといってそれは、子どもたちに何でも好きなことをさせることではまったくない。

…(中略)

人間が集団として生き延びるには、個人の行動に制限を課さなければならない。しかし文化のルールの範囲で、子どもたちは、もちろん大人たちにも、最大限、好きなように考え、行動する自由を与えることは、過去数世紀にわたって続き、…(中略)途方もない撹乱を生き抜く上で絶対必要なことである。

 
自由ってのは、「選択肢の多さ」のことですよね。

ってことは、自由であればあるほど「どれにしよう!」と、自分の脳を使って考えるわけです。

逆に、自由じゃない規制だらけの世界だと、選択肢がそれほど多くないので、あまり脳を使わずに生きていっちゃう。

さぁ、では生まれてから成人するまでの20年、自由のなかで生きてきた人たちと規制のなかで生きてきた人たち、どっちがこれからも長く生きていけるでしょう。
 
 

最高の教育方法、「遊び」

サドベリーを訪ねて来た人が何よりも驚くのは、あらゆる年齢の子どもたちが一日中、自由に遊んでいる姿を目の当たりにする時だ。

「遊び」は概して、西洋社会では悪い評判を得ている。経済的に、社会的に、それどころか論理的にも、最も無益な活動だと見なされているのだ。

「遊ぶ」は「働く」の反義語だ。よくて、生産的な活動を終えた人が手にする「他に何もすることがない時、するもの」であり、普通は「してはならない」とされるものなのだ。

要するに、サドベリー・スクール(過去記事参照)では、一般的に「無益な」「してはならない」活動をずーっとさせているということ。

なんで!?
 

「遊び」ってなんだ?

自由自在な想像力の駆使でもって特徴づけられる精神的なプロセスによる活動である。

…らしい。

簡単に言うと、何かを想像して、それを現実に反映させて試してみること。

例えば、スポーツ。サッカー。

フィールドはこの線の中で、この網がそれぞれのゴールで、このボールを多くゴールさせた方の勝ちと「想像して」、みんなでやってみる。

まさに、遊び。

今や人気になりすぎて遊びでは済まないですけど。
 

自由を最大限活かすのが、「遊び」だ!

子どもたちが自由に遊ぶことを許される___創造的な自由を持つことができることは今、…(中略)社会的に不可欠な前提条件である。

それなのに大人たちは不安がっているのだ。一日中遊ぶことを許された子どもたちは、成長した後、「現実に」直面する用意が出来ていない子になる、と不安がっているのだ。

生活上の、より深刻な問題に目を向けず、一日中、遊びほうける大人になる、と。

さっきサッカーを例にして書いたとおり、遊ぶときにはいろんな想像をします。

そしてみんなでやってみて、不具合が出てきたら新たに想像して(ルールをつくって)、また試します。

オフサイド、なんていうルールは最初なかったはずですよね。

つまり、遊びの中でいろんなことを想定して、実験して、ダメならまた想定して、実験するというのを繰り返しているわけです。

このサイクルが現実社会でも大切なことは言うまでもありません。
 
再びサッカーで例えるならば、

敵を危険な行為で妨害すると(決められたルールを破ると)、PKのチャンスを与えてしまう(不利な立場に立たされてしまう)

みたいなことですね。

遊びでも、現実社会で起こり得ることの練習になっているんです。

自由であれば、自主的にその行為をし続けます。ありとあらゆるパターンを想定し、試す。それが楽しければどんどん精度が高まっていくし、飽きればまた全くない別のパターンを想定して試す。

黒板の前に立って話す先生なんか、その教育には必要ありません。

遊びは現実からの逃避ではなく、現実の新たなモードを試してみる機会である

 
 

一旦、ここまで

いよいよ学校をつくりたくなってしまったな。

…「想定」して、試してみます。


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