「苦しいときはみんなで苦しんで乗り越える」という誤った思考回路について
「苦しいときはみんなで協力して、苦しみを共有しながら乗り越えよう!」
確かに聞こえはいい。
乗り越えたときの達成感もあるでしょう。
これぞまさに日本の美徳。
…いやいや、それは違うでしょ。
というお話。
そもそも、その「苦しい」は本当に味あわなければならないものだったのかを考えるべき。
「みんなで協力して乗り越えよう」
ではなくて、
「そもそもなぜ苦しいのか」
を考えて、その原因を取り除くことを考えるのが先。
みんなで苦しんで乗り越えて、「いやー!みんな苦労して頑張った!」と満足しているだけでは、またその苦しみを繰り返すだけだ。
そんな力技が通用したのはもう昔の話。
苦労することは別に偉いことじゃない。
今はむしろその逆。
苦しいことはどんどん機械がやってくれるようになって、自由な時間が増えていくのがこれからの社会の流れ。
その自由になった時間をどれだけハッピーに過ごすかが重要なのだ。
この問題で最も厄介なのは、その苦労を取り除くことを「楽している」と受け取る連中がいることだ。
例えば、全世帯が薪で風呂を沸かしている地域があったとしよう。
冬の風呂を沸かす家事は非常に辛い。
でも、どの家もそうしているから苦労しながらみんな薪で風呂を沸かす。
そんな中、どうしても薪は辛いので、ある家がガスで湯を沸かす機械を買ったとしよう。
その家に対して
「あそこの家だけ楽している」
「裕福だからってあんなことして」
「ガスなんて環境に悪いに違いない」
なんて言うのはおかしくはないだろうか。
苦労を取り除くことに対して「楽している」「地域の一員という自覚が足りない」などと指摘するのは、そのぐらいの違和感なのだ。
「便利そうだね。どこで買えるの?」
「ガスの長所と短所はなんだろう」
「薪で沸かしていた時間を一家だんらんの時間にできるかも」
というように柔軟に考えてこそ、「苦しい」をみんなで乗り越えることになるのではないか。
その上で、「やっぱり風呂は薪でしょ!」というのは大いに結構だ。
もちろん、それを好きで選んでいるのだから、他の家のガス給湯に対してどうこうぬかすのはナンセンス。
「みんなはガスで沸かしているけど、うちは薪風呂!楽しいよ!」
と言えるぐらいでないと。
「なんでも機械に頼るなんて寂しい世界だ」
なんていうのもおかしな指摘。
「機械でやるか、自分でやるかを選択できる素敵な世界」
と考えるべき。
実際に、今も好んで風呂を薪で沸かす人たちがいるのだから。
本当に私の世代は選択肢が多くてありがたいと思う。
さらに下の世代には、もっともっと多くの選択肢が与えられることだろう。
それに対して、安易に否定しない柔軟な思考を持っていたいと強く思う今日この頃。
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