子どもをつくる能力と子どもを育てる能力は全く別のもの

2024.1.24


一般的に、子どもをつくる=子どもを育てる、ということになっているのであまり言及されないのですが、掲題の通り、子どもをつくる能力と子どもを育てる能力は全く別のものなので、そのどちらかだけ高く、もう片方が低い人もかなりの数いるのではないかと思っています。

ちなみにここで言う能力は、それぞれ

「若いうちに相手を見つけて、子どもをつくる気になって、産むに至るという能力」

と、

「子どもの成長のための時間と資金をつくり、愛情を注ぎ続ける能力」

のことを指します。

 

もちろんどちらの能力も十分にあるという人には、ぜひとも自分の子どもを育て上げるという大功を成しとげていただきたいのですが、子どもをつくる能力が高い人はたくさん産んで、育てる能力が高い人がたくさん育てる、という構図があっても何ら不自然なことではないのではないかと思うのです。

 

ニュースになるためその印象が強いだけであることを願いますが、子どもをつくる能力の高さと育てる能力の高さはあまり比例しておらず、むしろ「産みはしたが育てられない」という人の割合が高い気がしています。

例えば虐待がニュースになった際に、子どもにペットのような名前を付けている、本能のまま子どもをつくったであろう夫婦をよく目にします。

典型的な、つくる能力は高かったが育てる能力が低かった人たちです。

 

育てられない原因としては様々あるでしょうが、一番大きな原因は考える能力が低いというところにあります。

子どもは何を求めているのか、それに応えるために自分は何をするべきなのかを考える力がない。もしくは、わかっていてもそれを実行する方法がわからないのです。

 

考える能力を計るひとつの指標として、学歴があります。

実際に、育てることを放棄して虐待者となってしまう人は低学歴である割合が多いそうです。

 

逆に言えば、高学歴である人は子どもをつくる能力が低い傾向にあるということです。

比較的能力の高いであろう時期に学業や仕事を優先し、適期を過ぎてしまうのです。

そして皮肉にも、そういう人ほど育てる能力が高かったりします。考える力があるからです。さらに、学歴の高い人ほど家庭環境が良く、親も育てる能力が高かった可能性が高いので、見本があるという意味でも学歴と育てる能力の比例関係説は強くなります。

 

こういうことがわかっていても、子どもをつくる能力が高い人に「育てられない可能性が高いのでつくらないで」と言ったり、育てる能力が高い人に「勉強や仕事をするより子どもを育てて」と言うことは、倫理的に問題があるので誰もできません。

しかし、それぞれの能力が活かされず、まともに育ててもらえなかったことで人生に絶望する子どもが増える社会的損失は計り知れません。

 

それを避けるためにもやはり、「子どもをつくる能力」と「子どもを育てる能力」を分けて考え、どちらかが低い人もいることを許容し協力しあうことで、より幸せに暮らせる子どもを増やせるように社会全体で育てるという文化をつくっていくことも必要なのではないでしょうか。