良い親であるために親業(おやぎょう)の本を読む


最近全然おもしろい本に出会えていなかったのですが、久しぶりに「お、これは」と思える本に出会えました。

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親業(おやぎょう)。

受験勉強はほとんど身につかなかったし、金融の勉強も早々に「関わらないのがベスト」という結論に至ったし、農業からもいったん離れてしまったので、もはや今の自分にはこの分野にしか興味を持てないのかも。

 

今までこの分野を分野として認識出来ていなかった。「〇〇子育て!」「〇〇教育法!」みたいな本は山ほどあるけど、どうせ個人が書いた浮かれたノウハウ本としか思っていなかったのであまり手に取らないようにしてきた。

しかし「親業」と言われると受け取り方が変わる。確かに、親も立派な"仕事"であり、誰かに学んだほうがいいに決まっている。この人から学びたい、と思える人(組織)がなかっただけで。実親は正に先生としては最適かもしれないけれど、やはり子育て一経験者でしかないことには変わりないし。(何より本人らも教えたいなんて思っていないだろうし)

 

この本を書いているのは、親業訓練、指導者効果訓練、教師効果訓練などを手がけてきたゴードン博士という人。要するに、指導する立場の人を指導するプロ。アメリカではかなりこの類の訓練が広まっているらしい。

 

前置きはこのぐらいにしておいて、「お、これは」と思った箇所を備忘録的にピックアップしておきます。

 

 

今日の親が陥っている最大のジレンマは、親と子の間に必ず起こる対立を扱う際に、ふたつの方法しかないと思いこんでいることにある。ふたつの方法しか目に入らないから、「私が勝ち、子どもは負け」の方法をとるか、「子どもが勝ち、私は負け」の方法をとるかになり、多くの親は両者のいずれにすべきか決めかねている、ということになる。

親業訓練講座に参加した親は、このふたつの「勝ち・負け」法以外に、もうひとつ方法があると聞いて驚く。われわれはこれを、対立を解くための「勝負なし」法(第3法)と呼んでおり、親がこの方法をうまく使えるように助けるのが、親業訓練の主な目標のひとつである。

 

親業をうまく行うために、人間らしさを捨てる必要はないことをわかっていただきたいと思う。親は、子どもに対し肯定的感情や否定的感情をもつ一人の人間として自分を認めながら、親業を果たすことができるはずである。

よい親になるのに、つねに一貫した感情や態度を子どもに示す必要もない。本当はそう思っていないのに、子どもに思いやりを示し、相手を受容してやるふりをする必要もない。自分の子どもたち全員に対し、同じように受容し、同じ愛情をもっているふりをする必要もない。また、夫婦で統一戦線をはって子どもたちを相手にする必要もない。

 

親業をはじめて最初に犯す大きな過ちは、この、自分の人間性を忘れるところにある。親業をうまくやりとげる親は、自分が本当の一人の人間であることをまず自分に許す。一般に子どもは、親のなかの人間らしさ、ほんもののところを深く理解し、それを認めるものである。実際の本人とは異なった、なにか別の役割を演じている人ではなく、一人の人間としての親に対し好意を示しているのだ。

親は当然一貫性を欠く。日によっても、相手の子どもによっても、状況によっても感情が変わるのだから、ずっと同じやり方を貫けるはずがない。一貫性を保とうとすれば、親は正直でなくなる。「親はあらゆる犠牲を払っても、子どもに対して一貫した態度で臨まなければならない」という伝統的な訓練は、状況の違い、子どもの違い、父親と母親が互いに異なる別の人間であるという事実を無視したものである。

親は人間であり、神様ではない。当然子どもは受容されるほうを好むものであるが、親が本当の感情にもとづくはっきりとしたメッセージを送れば、親の非受容の感情に対し、建設的なかたちで対処できる能力を持っている。

 

 

・「勝負なし」方について

「わたしメッセージ」のほうが、抵抗や反抗を生むことが少ない。子どもがある行動をしたから子どもが悪いのだ、というより、その行動が「あなたに」どういう影響を与えたかを正直に話してやるほうが、子どもにとっては受け入れやすい。
子どもが親のスネを蹴ったとする。「いたーい!あーあ、痛かった。蹴られるのは嫌だなぁ。」というメッセージは、単に子どもが蹴るとあなたがどう感じるかを述べただけで、子どものほうに異存のあるはずのない事実を示している。

「わたしメッセージ」が子どもに伝えるのは子どもに責任を持たせていること、子どもが状況を建設的に取り扱えるとあなたが信じていること、あなたの欲求を子どもが尊重してくれると思っていること、建設的に行動する機会を子どもに与えていること、などだ。

 

勝負しない第3法では、親も子も権力を使う必要がなくなる。第1法と第2法は権力闘争を生むが、第3法ではまったく別の姿勢が生まれる。親と子は闘うのではなく、いっしょに共通の課題に立ち向かうのであり、親の権力に対抗する方法を子どもが工夫する必要などない。
第3法は、「あたなと私と両方に受け入れられる解決策をいっしょに探そう。そうすれば、あなたの欲求も満足できるし、誰も負けずに両方とも勝てるから」と子どもに伝える。

 

「論理のわかるような年上の子どもに第3法が効果があるのは理解できますが、2歳から6歳ぐらいの小さい子どもには無理でしょう。」この質問は親業訓練講座で必ず出てくる。しかし、幼稚園に行く年齢の子や、それよりも小さい子どもにさえ、たしかに驚くほどの効果を持つ。早い時期に使い始めれば、それだけ早く子どもも他の人と民主的な関係を持ち、他人の欲求を尊重し、自分の欲求が尊重されれば、それが認識できるようになる。

 

・親の力のおよばないこと

ある特定の行動について、子どもに自分の意見を聞かせようとする努力を諦めたくない、という親の強い気持ちは理解できる。しかしながら、もっと客観的に考えれば、諦める、変えられないことを受け入れるよりほかに、現実的な方法はなにもないことが親にもわかるはずだ。
煙草を例にとってみよう。親が子どもにいろいろ事実を示したとしよう(自分の悪い経験、政府の報告、雑誌記事など)。それでも、まだ子どもは煙草を吸うほうを選んだとしたらどうだろう。親には何ができるか?子どもが家にいるときにいつも親が傍にいるわけでもない。喫煙の場面を捕らえたからといって、親になにができるのか?子どもを責めても、子どもはそれが終わるまで待って、また喫煙をはじめるだろう。

実際には、子どもに喫煙をやめさせることのできない自分の無力を受け入れる以外に、実行可能な方法は親にはないことになる。
もしかしたら、これが親となるのに支払う代価なのかもしれない。私たちは最善を「尽くし」、そして最善を「望む」ことはできる。しかし長い間には、その最前の努力でも十分ではないかもしれない危険があるのだ。

 

・夫婦関係について

とくに母親は、夫婦関係からもたされるべき満足と喜びを、子どもに求めようとすることが多い。そこで「子ども第一主義」「子どもの犠牲になる」ことになり、親子関係へ親が大きな投資をしているので、子どもが「よくなる」ことを大いにあてにすることになる。

よい親業者は、子どもともっと気楽な関係をもつ。夫婦の関係を第一義的と考える。子どもはその人生に重要な位置を占めるが、第二的位置に近い。はっきりと第二義的ではないかもしれないが、少なくとも、結婚相手の占める位置より重要ではない。彼らの投資は子どもだけに向けられるのではない。結婚にも向けられる。したがって、子どもがいかに行動するか、子どもがどれだけのことを成し遂げるかは、彼らにとってそれほど決定的な重要性を持たない。

 

・学校について

学校制度に対して、多くの人が同じ欠点を指摘している。さらに、学校や先生についてどう思うか、子どもに聞いてみさえすればよい。ほとんどの子どもは、学校を、ただ「行かなければならない」ところと思う。学校は楽しくないもの、面白くないものとして経験する。勉強はあきあきすると思う。そして教師を、友好的でない警察官だと考える。
そういう否定的な反応をもたらすような扱い方をするおとなの手に、子どもが委ねられるのであれば、子どもが成長した結果に対する非難を、親が一手に引き受けるのは不当である。親は非難できる。

 

 

親業、とても大事な学問だと思うのですが、正直日本ではウケなさそう…。この本自体かなり古いものなので、現代の日本にもその文化が広まっていてもおかしくないのですが、全く聞いたことがなかったということはそういうこと。

特に今の日本ではウケないでしょうね。親の自由の方が優先されるような世の中なので。

いいんです。自分の家だけでもこれに気付いて円満な関係を築いていくことができれば…。


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